アート・ル・シティ

「ゲストもキャストも楽しめるアーティストのテーマパーク」を創るべく奔走する市長・白鷺桜優(シラサギサクヤ)の雑多な日常。芝居をはじめとにかくアーティストとして生きながら、普通の女の子としても生活をレポート。アート・ル・シティの都民のポップでハートフルな物語もお送りします♪

かつて自分が書いた文章に赤ペンを入れてみた

 文章だけ読みたい方はこちら。

「心の輪をひろげる体験作文」というので高校3年生のとき優秀賞を取ったときのものです。障がい者福祉の内容。

art-le-ctiy.hatenablog.com

 

 

とりあえずワードの文字カウントに聞いたら「2000文字」くらいあるらしい…。

課題どうだったっけ…? 原稿用紙5枚も書いていいものだったのか…?

 

とにかく、ダメだししていこうと思います。

7年前の文章になるので、それなりに状況も変わってますし。

 

 公共施設が憎い。生まれて初めてそう思った。私がボランティアとして車いすの男性の介助をしながら、札幌や大通を散歩していた時のことである。私は日ごろからボランティア活動が趣味で夏休みを利用してまた色々やってみようと思っていた。その時ボラナビのホームページで車いすの介助者の募集をみつけた。そして新たな経験ができると思いやってみることにしたのだ。

 

はい、当時も話題になった書き出しです。

否定語ってインパクトが強いんですよ。キャッチとしてはある意味最高です。

ただこれ日常生活でパワフルに連発すると「怖い」とか「否定された」という印象の方が残りやすく【本当に伝えたいこと】がぼける可能性があるので気をつけてください。

同時に「ないものは『ない』」のでイメージしにくいらしいです。

 

 車いすを押しながら、駅構内を地下鉄に乗るため案内板通りに歩いていくと階段しかない。男性は「僕たちはあの看板をあてにしちゃいけないんだ。こっちに行って」そうして、目立たないところにあるエレベーターを利用する。地下と地上を行き来するために地下鉄のエレベーターの乗り継ぎが必要だった。それに地下鉄に乗るのに四、五十分は掛かる。身障者用トイレも少なくて、地下街を端から端まで歩いた。デパートには車いすには開けにくい両開きのドア。通るだけで車いすをガタガタさせるインテリアのタイル。使いにくいインテリア重視の本末転倒なスロープがあるのは驚いた。

 

これ当時のさっぽろ駅からすすきの駅近くまでの描写ですね。物理的なバリア。

さっぽろ駅はそれなりに改善されたように思います。

南北線のところに直通エレベーターができたはずだし、ガタガタのタイルは早々になくなりました。

大通はどうだったかな…?

身障者用のトイレの改修工事があったのは覚えてるんだけど…。

スロープ? 聞くな。まだ残ってるから。

今、横でめちゃめちゃバリアフリーの話してる…! 道の状態の話とかしてる…! お店の道幅の話とかしてる…! 車椅子トイレの話してる…! 自販機…!? 市電…!!!

大通り周辺、身障者トイレ、やっぱ少ないみたい…。

 

そう考えると書くだけ書いて意外とちゃんと見てないよな…。

東豊線とかバス周りとかどうだったけ?」と思っている私がいる…福祉や障がいといっても、少し畑が変わるだけで「あ…」ってなったりするんですよね。

 

 一緒に昼食を食べていた時に私は「公共施設ってどうしてこんなに使いにくいんでしょう」と尋ねた。すると男性は「お役所仕事で『とにかく使えればいいんだろう』って使う人のことを考えずに作るからこうなるんだよ。お金もないしね。僕らはただでさえ不便で疲れる体なのに、普通の人より何倍も疲れることをさせられる」とバリアフリーの不届きを批判していた。

 

最初といい、この文章といい「絶対に最優秀は無理だろw」な文章。主催どこだか考えろって話www

でもこの「飾らない・狙わない」感じがよかったりもします。

 

なんにせよ当時、本当に当事者からヒアリングしたことで『本音・本気の生の声』だから、こちらとしては「それを受けて何を考えるか・書くか」しか考えられない。しかも無視できないですよね、この話。公的機関としても。

こんなのが高校生から出てきちゃった(笑)

 

てかこんな文章を私はただ「実体験と感覚だけ」で書いてたんだな…。

いくら国語の先生が添削入れてくれていたとはいえ…マジか。

 

 同時に私はなんて冷たい社会なのだろうと思った。公共施設は健常者主体にできている。車いすの男性のような障がい者のことが考えられていない。公共施設自体が障がい者を排除しているように私には思えた。障がいがあるだけで就労が困難になることがあるなど、差別や誤解を受けることもあるそうだ。しかし私にはわからなかった。障がいとはそもそも何なのか。健常という状態とどう違うのか。それが知りたくて、今度は四人の知的障害者との二泊三日のキャンプに出かけた。

 

この文章「二度と書けません…」って感じ。

現場と実態を少しでも知ったら書けないよ…青い。超青い。

公共施設以外も基本的に何でも「マジョリティ(多数派)主体」で物事できてるから。

色々とマイノリティによる声もガンガン出るようになって…一時よりはフラットになってきてるんだろうけど…まだ遅いし足りないし差別・偏見も残ってるよね。

 

というか『刷り込まれてる』んだよね。

差別も。生き方も。とにかくいろいろ。

 

その中でもファーストペンギンになって飛び出して、また新たなムーブメントやマジョリティ…時代の流れを作っていく人が『イノベーター』と呼ばれたりするんだろうな。

その飛び出して、さらには【ぶち破っていく】ことがこれからの『私たちの仕事』なんだろうな。

 

形は何であれ。私は「平和と平等」を目指したい…と急に思う。

 

 キャンプ中は知的障がいの人達は片言で話す人も多く、何を言わんとしているのか察するのが大変だった。それからテレビのリモコンの取り合いが起こったり、登山の際に年齢的は大人の人がおんぶを要求してきたり、子供っぽさを見せることもあった。そして寝るも食べるもマイペース。でも、とても素直で明るい人たちだった。積極的に作業を手伝ってくれる人もいた。陽気に歌って楽しませてくれた子供も、嫌な登山を泣きながら頑張った子供もいた。彼らの行動に手を焼き、困ったこともあったが非常に楽しく、充実した二泊三日であった。

 

特に文章としては特に言うことないけど…。

社会人としては甘ちゃんだなぁと…。

 

 しかし私が知りたかった疑問はさらにわからなくなった。そもそも障がい自体が千差万別なのである。同じ知的障がいと言っても、人が違えば私が会った四人とも全く違う特徴や症状を示すだろう。個人差がかなり大きいのだ。それに手が掛るといっても本人の特性を理解し、適切な接し方をすれば関わっていくことに何の問題もない。苦手克服のための努力をしたり、長所を見つけて活かしたりすることもできる。障がいと健常の違いは知れば知るほど、考えれば考えるほどわからなくなっていく。誰しも短所もあれば長所もある。健常者でも全てのことができるわけではない。場の雰囲気のわからない人もいる。そもそも障がいを持っている人が悪いわけではない。ただ持っているその人の性質に過ぎない。

 

これ本当。

はっきり言って書いてることは「正論だけど、そんな簡単じゃねーよ!」って内容なんだけど、本当にその通りで。

「○○障がい」ってカテゴライズされてても、個人差が大きすぎて「障がい名とかどうでもいいから、特徴と配慮すべきことを教えて」ってなる…!

実際「障がい名を告げられない」ということも多いです。障がいの知識が先行して『当事者自体が見えなくなる』ことがあるから。

正直、正社員で現場入ってても「知的障がいは知的障がい」としか言われないし、書面上の等級とか区分とかもあるんだけど、それが同じでも全然対応違うから…!

そして「機会がなくてできていないのか」と「どんなに頑張ってもしんどいことなのか」は正直、一緒にいないとわかりません。

軽度知的障がいの場合は特に。「ゆっくりやればできた!」ということも多いです。

あと「併発」ってパターンも多い。

典型的なパターンがダウン症の人の「知的障がいと心臓病」ですね…ダウン症の人は心臓が弱い人が多いんです。

 

 ならば健常と呼ばれている人と何も変わらないではないか。違いがないなら考えてもわからないのは当たり前だ。健常者の視点から見れば、障がいは目に見えるハンディかもしれない。でもそれは必ず尊重されるべき個性であり、隠れた才能と知の片鱗だろう。彼らが抱えたハンディの分、素晴らしい才能を与えられているはずだ。

 

 目に見えないハンディも多いです。

内部疾患とかね。ヘルプマークの認知度とかもまだ怪しいしね。

 

そしてこの文章(文字の制限とか取っ払った上で)の最大の欠陥は

精神・発達系の障がいについて触れられていないこと。

次の段にトム・クルーズの事例が出てくるだけなんだよね。

そう、本は読んでたの。いろいろ。アスペルガーとかADNDとか。

ただ当時そのあたりのことをちゃんと認知してなかったんだよ…。

その上で「同じテーマでもう一回書け」といわれると凄く難しいんだよね。

 

わかんないもん。よっぽど負のオーラ出してて凄く病んでる人以外。

 

「この人それっぽいな」とかそれなりにわかるちゃわかるけど…普通に生活してしてるし。

そもそもこの現代社会にはわんさかいるぜ? 普通に学校とか会社とかにいるぜ?

そもそも「病態水準」っていう考え方では「みんな病んでるのが大前提」だぜ?

神経症」という「つらくて病んでるけどなんとか社会生活を送れている人(ちゃんとした定義に関しては自分で調べてください)」という状態が健常とされています。

 

正直、老化とか事故とか病気とか考えても…精神系は特にそうだと思ってるんだけど。

「障がい」と「健常」は紙一重だぞ?

ヒトゴトだと思ってない…? 甘いよ、その考え。

 

 実はハリウッド俳優のトム・クルーズもLDと呼ばれる障がいを持っている。彼は障がいがあろうとも俳優としての才能を開花させた。障がいがあるから才能や生き甲斐を求められないということはあってはならない。トム・クルーズのように才能を開花させることができれば、それは障がい者の幸せにつながる。そして才能を発揮する障がい者たちは社会の財産にもなることだろう。

 

発達障がい系の人はこのパターン多いですよね。最近だと栗原類さんとか。

歴史上の人物の科学者・画家・革命家・発明家は発達障がいの可能性が高いといわれてたりもしますね。

実際、どっかいい感じにぶっとんでる人多いよ。本当に。

 

 才能と共に、障がい者は私達にはない視点を得ており、それを与えてくれる。車いすの視点からは本当に使いやすい、快適な空間とは何かを。知的障がいからは人間の新たな側面を。障がいと言っても千差万別。障がいという視点を持つ人の数だけ、私が知らない英知がもっともっと隠れているに違いない。

同時に私達が知らないことだけではなく、生きる上で必ず必要な素朴なこともふれあいの中で教えてくれている。相手の身になって考えること。人に真剣に向き合うこと。障がいそのものが人を育てることも出来るのだ。

 

これ障がいがあろうとなかろうと「人を含め何かと向き合う上での基本」です。

全治全能の人間がいてたまるかよ。

 

 社会の財産である障がい者たちは、「社会でもっと私達を尊重してほしい」という訴えと、彼らが体現する音のない何かによって、私達に問いかける。本当に大切なものは何か。よりよい社会とは何か。この問いかけに私達は全力で答えていくべきだ。障がいが排除されず、個性として尊重される暮らしやすい社会のために。そうすることによって、全ての人にとって本当に暮らしやすい優しい社会になっていくはずだ。障がい者にとって優しい社会は、私達にとっても優しい社会なのだから。

 

…これは「障がい」という視点から切り込んでいるだけで。

全てに言えることじゃない…?

あえて最後の文には下線を引っ張りました。

この最終段落、特に下線の最終文だけは

 

「全ての人にとって本当に暮らしやすい優しい社会」が実現するまで変えられない。

 

そんな気がします。

 

P.S.

今でも「障がいとは何か?」と問われても、わかりません。

今だからこそ、わかりません。

というか、やっぱ、根本的には「障がいも健常もないんじゃない?」という同じ結論に行き着くね…。